ウイルス その3

 「分からないものはわからない」とたびたび書いたが、なぜそこを強調するかを書いておこうと思う。

 

 毎日のように報道される感染者数から、経済への影響、いろんな報道に接していつも頭に引っかかっているのは、統計データーの読み方のことがあるからだ。

 つまらん陰謀論は必ず出てくるが、それは置いておいても、わからないことを分かろうとしたくなるのは心情だし、どうなっていくのか知らないと不安ばかり募るのは当たり前だ。

 そんな時に頼りになる目安がデーターである。しかし統計はもろ刃の剣である。分かりにくいものを分かりやすくするためのすばらしいツールだが、(いままで品質管理や安全性評価試験をかじったこともあるので言えるのだが)作成した経験のある人ではなく、一方的に受け取るだけの一般市民にとっては、よっぽど注意してかからなくてはいけない。

 【※当然、感染症対策には数理統計の専門性も要求されるので、現在の統計データーの数字やデーター、それに基づいた対策は信頼性はあると思うし、それをうんぬん言うのではない。一般論です】

 

 統計データーは実は前提条件次第いくらでも操作できる。因果関係、相関関係、それらを裏付ける統計データーを示されると消費者はコロっと騙される。だから騙そうとまでいかなくても、こうだろ、と「思わせたかったら」簡単だ。

 最も単純な方法は、サンプル数やグラフのスケールを意図して小さくしたり大きくしたりして、「都合のいいような図」として見せるすることで、「そう思わせる」ことは簡単にできる。

 また、極端なことを言えば、十分な性質や病理など基本的なこともはっきりしていない新型コロナウイルス感染症も、今なら自説に都合のいい統計データーから信用(誤解)させることは簡単なのだ。そしてそんなのがしばしば見られる。

 今までも、温暖化や放射能、発がん性など、環境問題や人の健康といった関心が高くて生活に近くて、なおかつ複雑さが半端ではない事象に関しては、そのような事例をさんざん目にしてきた。

 悪意がなくても、実社会、というあまりに複雑な要因が関係する中では、統計データはあくまでデーターであり、そこから何かを導こうとすれば、誤解を生んでしまう危険性は大いにある。

 根拠のない説や数字に騙されないのはもちろんだが、事実に基づいた数字であっても注意が必要だと言いたかったのだ。特にリスクと安全性については、示される数字よりとらえ方の問題となってしまう。思い込み、無視、深追い、条件反射、等々、私たちが注意しなければならい「とらえ方」に対しては、不安が増せば増すほど「分からんもんは分からん」と一定の距離を置き、目の前の事象のみに重きを置くことは必要だと思ったからだ。

 

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 そしてもう一つ、わからんものに、「ウイルス」というのがある。生物なのか、無生物なのかもわからない。昔、生物でウイルスのことを習うと必ず「タバコモザイクウイルスの結晶」の話が出てくるが、細胞でもないタンパク質でできた殻に包まれており、結晶する、のに感染して病気をおこしたり、自らの意思があるかのように戦略的に増殖する。はっきり言って得体のしれない「もの」というのがわたしのとらえ方だ。

 人間に寄生し、増殖する粒子。なぜそうするのか。生態系内のでの役割は何なのか。考えれば考えるほど「わからない」ものなのである。だから、ウイルスを細菌と比較したり混同したりすると、思わぬ間違いを犯すこともある。だから、「わからない」と認めたほうが良いと思ったからだ。

 

  昆虫記で有名なアンリファーブルに「植物記」という著書もある。その中の一節に単細胞生物、カビについて書かれた文章がある。生態系の視点からミクロの世界をのぞくことのできるすばらしい文章だが、その中でジャムに生えたカビの話がでてくる。

 「カビでジャムが傷むのは、カビが持つ浄化の使命、死んだ成分を生に還流させる偉大な使命を持っているからだ」と表現する。「そして、そんな事が何になる、と愚かな質問はしないことだ、創造の摂理を推しはかれるほど私たちの目は先がみとおせるだろうか」と言う。

 そしてカビに対峙するとき、私たちには

「ものごと全体を判断するほどに、われわれは炯眼(けいがん)であろうか。自己防衛はしよう、だがうらみごとはいうまい」

 と唱えて用心しよう、と呼びかける。

 これは、私たちが生物に接するときには、とても大切な視点だと思っている。そして今、ウイルスに対しても同じだと思っている。

 

(おわり)

 

(参考:「単細胞生物」ファーブル著、日高敏隆、林瑞枝訳、「自然と人生」筑摩書房 より)