震災の記憶−8

 電車に乗って帰るとき、梅田駅で乗り換えた。そこでは、サラリーマンがふつうに仕事をして、ごくふつうに居酒屋がにぎわっているいつもの梅田の光景があった。わずか電車で30分あまりの距離なのに、このギャップにショックを受けた。ついさっきまで、ぞろぞろと給水車に並び、家を失った人が多数ひしめく避難所のある、壊れた町にいたとはとうてい思えない、どっちかが夢ではないだろうかと思うぐらいのギャップだった。
もしここで買い物をして再び西宮に戻るとすれば、途中で電車が止まり、長い距離を歩き歩いて、ガスと水道のない壊れた家に帰ることになるというのも、信じがたいというかなぜなんだろう、という不思議な感覚であった。

 戦争を経験した人は、震災と戦争体験を重ね合わせた人が多い。線路を歩いて買い出しに行ったことを、家の親せきは、当時小学生だった終戦後、大阪の闇市まで歩いて(!)買い出しに行ったことを思い出した、といっていた。東京の会社の上司で、戦争体験者の方は、僕に、テレビでやっている神戸市のがれきと焼け跡が、終戦後の東京の町そっくりで本当に胸が痛む、とおっしゃった。


 その後東京では地下鉄サリン事件が起こる。日本中がとんでもない騒ぎになった年だった。


 数週間後再び西宮に帰った。家は取り壊しがすんで、更地になっていた。

 友人達と震災後に元気を出そうと飲み会を企画して、みんなで集まって飲んだ。僕のように西宮から出ていたやつもみんな集まった。M子は、退院をして、まだ車いすだが元気に参加してくれていた。自分たちの友人達が一人もかけることなく再会できたのが何よりうれしかった。

 それから僕の生まれた町は、懐かしい風景のほとんどが失われて、新しい町に様変わりしていった。
地震で大打撃を受けた商店街はほとんどの店が、それを契機に店をたたみ、再開発でマンションと駐車場になり、チェーン店とコンビニと、ラーメン屋が目立つようになった。古い家が残る町並みや路地裏、未舗装の抜け道も無くなり、道は広くなり、建て替えた家が並ぶ新興住宅地のようになった。とくに駅前は面影もない。

なつかしい生まれ育った町が、明らかにあの地震を境に過去の物となった。ただ、夙川の桜並木が、変わらず毎年咲いていることが、西宮を離れている自分にとってなにより懐かしくまたうれしくもある。