2010-01-01から1年間の記事一覧

桜はいいな

桜が今年は長持ちしています。やたら暖かいと思ったら恐ろしく冷え込んだりする天気にさすがにとまどっているようです。その証拠にいつもは早く終わるスイセンが桜が咲いてもまだ満開です。3月はいろんな行事や会が目白押しでした。そのなかで、米奥小学校…

明日で42です

農業とは関係ありませんでしたが、8回にわたって震災の記憶をたどってみました。 あれから15年になります。 あのとき感じたことは今も鮮明に心に残っています。しかし、こうして文章にすると、もっといろんな出来事があって、いろんなことを感じたと思う…

震災の記憶−8

電車に乗って帰るとき、梅田駅で乗り換えた。そこでは、サラリーマンがふつうに仕事をして、ごくふつうに居酒屋がにぎわっているいつもの梅田の光景があった。わずか電車で30分あまりの距離なのに、このギャップにショックを受けた。ついさっきまで、ぞろ…

とにかく水(=風呂、水洗便所)がなくて、あまり迷惑がかけられないので、東京に戻ることにした。安否確認のできない友人などもいたが、とりあえず新聞の犠牲者欄にのっていなかったので、みんなも大変な生活で手一杯だろうと思い、あえて探したり訪ねたり…

震災の記憶−6

翌日、母親がやっていた洋菓子のフランチャイズのお店を開けているというので、手伝いに行った。もちろん商品の仕入れはなく、店にある物を売るだけなのでほとんど品揃えはない。しかしお客さんは良く買いに来てくれた。男性がなんか食べるものないか、とき…

M子は5時間生き埋めになっていた。地震発生から家の下敷きになったときに、手で顔をかばったのか、動けなくなっただけでなく、声が出せない状態だったそうだ。 兄が消防に助けてくれるように要請したが、呼びかけに返事がないので妹さんはたぶんだめだろう…

震災の記憶−4

翌日は給水車が来るというので、水をもらいに行った。このころは定期的に給水車が回ってきており、事前に時間も分かっているので、さしたる混乱もなくもらえた。直後は何時間も並んだりしたそうだが。飲料水は何とかなるが、風呂とトイレが困った。トイレは…

震災の記憶−3

(しばらくは農業に関係ないのですみません)小学校からつきあいのある友人の家を順番に見に行った。古い家は激しく倒壊していたが、思っていたよりも全壊が少なかった。しかし、電柱が傾いたり、地面が所々隆起して歩道がひび割れたりしてるのを見ると、よく…

西宮が近づくにつれて、屋根をシートで覆っている家が増えてきた。 そしてリュックを背負った人がほとんどになってきた。西宮北口の駅に降り立つと、まず最初に目に飛び込んだのが、法外な値段で弁当を売っている連中だった。こいつらあほか、と思ったが、そ…

大震災−2

それ以降、全く連絡がつかなかったので、東京にいる西宮出身の友人達と情報を交換したが、まったくらちがあかない。新聞みて、知り合いや友人がのってないか、この写真や一瞬写るニュース映像はどこのことか、目を皿のようにしてみていた。石川に移動して仕…

大震災の記憶−1

昨年六月から更新してませんでした。見ていて下さっていた方ごめんなさい。 さて、農業とは関係ありませんが、これから少し、阪神淡路大震災のことについて書いていきたいと思っています。あれから15年。いつかは書き留めておこうと思っていましたので、い…