四万十川の風力発電

風力発電機の外国の施工例です。見てみるといろいろ思いますね。 
 四万十川の山の尾根沿いに40いくつも、本当に建てるつもりなんすかね。外国のように土地が広大ならいいけど。
 地元に電力を供給するためでもなく。
  よそでは、出力抑制でほとんど止まってたり、災害時の停電では風車は回れど電力供給できなかったり、という話も聞きます。
 潜在的に、太陽光も風力も非同期電源だから、単に増やせば良い訳でもないとおもうのですが、そこらへん世の中先の事など考えない風潮だから致し方ないか。
 伊方原発廃炉の代替という言い訳ならまだましですが(代替なしの廃炉でも電力足りてるけど)、家地川堰堤の撤去(佐賀発電所の代替)や火力発電所の代替とか、そうでもないし。
まあ、特に地元には必要無さそうなんですけど。
 
 目的が発電より売電、売電より投資、の太陽光しかり、輸入木材燃料で稼働中の木質バイオマスしかり、日本の自然エネルギーはどうしてこんなことになったんですかね。
 
  いかにして大量生産、大量消費から離脱して、自然から得られるエネルギーを人間の使うエネルギーに効率よく変えていくか、その技術開発こそが肝であると思ってました。
 今後はその方向に行くのでしょうか?行くのであればなおのこと、大規模風力発電は違う方向性だと。
 
  「木一本、首ひとつ」といわれた木曽檜の山。資源保護のため入山、採取を厳しく制限された御留め山。
 山に価値を作るのが人の営みならば、時代とともに変わるのは当然でしょうが、変えてはならない考え方、失ってはならない価値があります。
 
 「今だけ、金だけ、自分だけ」と言われる経済優先社会の価値観の中では、自然エネルギーもこうなるのは必然なんでしょうか?
 確かに市場拡大の見込める分野ではありますが、自然エネルギー利用とはこういうのではなかったんだけど、と思う。持続可能とかCO2削減といいつつ、実は欺瞞に満ちた施設が建つことには、ああ嫌だなぁ、と心底思う。
 
  近未来の宇宙を舞台にした「プラネテス」というマンガに風力発電が少し出てくる。そのシーンが実に良い。
 
 デブリ回収船の宇宙飛行士タナベの幼少期の回想シーン。捨て子の彼女は、風力発電のメンテナンスの仕事をしているお父さんと学校の先生であるおかあさんに迎えられていた。
 「今日、生活科で風力発電のこと教えたよ。あまり役にたってませんって」
「まーねぇ、核融合発電にはてんでかなわないからなぁ」
「でも私は好きよ。生徒たちも好きだって」
 元パンクロッカーのお父さん、風力発電風車の下でのんびり煙草を吸いながら、
 「いーい天気、、、今日もロックンロール日よりだなぁ、、」とつぶやく。
 
数年後。成長し、宇宙飛行士となり帰郷したタナベは、おとうさんのもとにお弁当を持っていく。
 「相変わらす風車は働き者だねぇ、私、風車は好きよ」
 
 そう、自然エネルギー利用は、人の生活により近く、より優しくなければならないと思う。