大震災の記憶−1

 昨年六月から更新してませんでした。見ていて下さっていた方ごめんなさい。

 さて、農業とは関係ありませんが、これから少し、阪神淡路大震災のことについて書いていきたいと思っています。あれから15年。いつかは書き留めておこうと思っていましたので、いい機会と思って書いてみます。

 私は当時は東京にいました。西宮の実家は被災して全壊しましたが、幸い身内にはけが人もいませんでした。
現場にはいなかった自分は、震災5日後に実家に帰りました。そして見聞きしたことを、記憶が薄れる前にその前後を書き留めてみます。


 朝、7時前ごろだったと思う。電話が鳴って起こされた。その日は、ある食品機械の製造プラントの試験運転で、千葉と石川のメーカーの工場に4日ほど出張する予定が入っていた。当時の上司からだった。
 「村上さん、関西で大きな地震があったみたいだけど実家は大丈夫?」
 まさか関西で大地震が起こるなどと夢にも思っていなかったので、たいしたこと無いだろうと思ってテレビをつけた。ズームイン朝で福留さんが、大阪で震度4を伝えていた。工事現場のクレーンが傾いた様子を写していた。
 大阪で震度4ならたいしたこと無い、と思い、「大丈夫でしょう、予定どうりいきますんで」と答えた。

 今では考えられないが、この時点でまだ、東京ではこの情報しか入っていなかった。神戸のコの字もなっかた。

 9時ごろと思う。予定どおり、会社の人と待ち合わせの埼玉のある駅に着いたとき、「なんか関西で大変みたいだよ」といわれた。「高速道路が崩壊してるって」「ほんとですか?」
 10時にメーカーの現場に入った。この時点で、死者も出ているという情報もはいった。そして、大変だよ、西宮から芦屋にかけて阪神高速道路が倒壊している模様。死者数十名。というニュースを工場の人が伝えてくれた。
 電話を借りて(当時は携帯は未普及)実家に電話してみたがもちろん不通。状況を思い浮かべて、ああ、僕の両親は、死んだかな、と思った。あの、阪神高速が横倒しになっているのが本当なら、近くにある実家なんぞぺしゃんこのはず。家の状態からして、だめだろう、と覚悟を決めた。

 一応試験運転をすませて、昼休み再び電話をした。奇跡的につながった。親父が出た。

 「みんな大丈夫やけど家はめちゃくちゃや。やられたわ。もう住めへんで。」
 
 あとから聞いたことだが、このとき、親父は、電気の配線をつなごうとして、壊れた壁にある切れた線をつないだでいた。そしたら、それが電話線で、結んだ瞬間に僕からの電話がなったらしい。

 その後はまた、全く電話はつながらなかったが、この偶然の一回で、みんなの無事と家の状況がわかった。
 会社のみんなには戻れといわれたが、親からは帰ってこんでいい、と強く言われた。避難所にいる家族に会いに行っても、避難所に人が増えてみんなに迷惑がかかる。水もよけいにいる。とりあえず安全が確認されたから、予定の出張は続けることにした。

 ニュースでは火災と、うなぎ登りに増え続ける死者の数を伝え続けていた。とたんにたくさんの友達のことが心配になった。