とにかく水(=風呂、水洗便所)がなくて、あまり迷惑がかけられないので、東京に戻ることにした。安否確認のできない友人などもいたが、とりあえず新聞の犠牲者欄にのっていなかったので、みんなも大変な生活で手一杯だろうと思い、あえて探したり訪ねたりするのはやめた。
 町をひとまわりした。ああ、ここも、あそこも、なつかしい古い店や家がことごとくつぶれていた。近所では夙川沿いのマンションが一棟根こそぎ横倒しになっていたのがいちばんひどい被害だったように記憶している。街角には粗大ゴミの山が築かれていた。どう見ても壊れていない冷蔵庫などがつまれているのを見て、便乗ですてたな、と思ったが、あとあと考えるとはたしてどうだろうか。というのも、ある後輩が、震災のあと家の片付けをしているときに、あとから何で捨てたんだろうと思うほど、思い出の品とかもいろいろ捨ててしまった、なんか異常な心理状態だったようだ、と話をしていた。
 あきらかに、あの大震災の直後は、非日常にいきなり放り出され、一見落ち着いているような人も、心に相当負担があったにちがいない。がんばらないと、と踏ん張っているような緊張感は町のあちこちにあった。被害家屋の判定が出始めて、家の兄が当時勤務していた書店の入っているテナントビルは判定「赤」ということで、再開の見込みはなく、余震のある中、ヘルメットをかぶっておそるおそる片付けに行っていた。
 いやな話も良く聞いた。便乗値上げ、支援してくれて当然もっとよこせという態度、公衆電話泥棒(倒壊している公衆電話から部品を盗み出して、偽造テレホンカード製造に使える)。
 阪急神戸線の24時間の復旧工事がつづき、テレビはニュースとACのポイ捨て禁止のコマーシャル以外一切やらないし、国道にあふれる救援車両の渋滞は相変わらずあったが、食べ物もいろんなものも行き渡ってきて、物質的には普段と変わらくなっっていた。が、生活の根本がない。風呂、トイレ、仕事場、学校、に行けない、これからの先が見えない、という当たり前にしてきたことが全く止まったゆがんだ生活、それが、震災後の生活だった。