震災の記憶−3

(しばらくは農業に関係ないのですみません)

小学校からつきあいのある友人の家を順番に見に行った。古い家は激しく倒壊していたが、思っていたよりも全壊が少なかった。しかし、電柱が傾いたり、地面が所々隆起して歩道がひび割れたりしてるのを見ると、よくぞ無事だったなと思うばかりであった。とくに火災が発生してなかったのが救いだったと思う。

H氏宅は一階が完全に倒壊して、2階が1階になっていた。みんないつも2階で寝ているので無事だったそうだ。暗い中はい出したら一階だったのでおどろいたそうだ。私と同じく西宮を離れていたU氏宅は無事だったが、中はどの家もそうだがぐちゃぐちゃだろう。別でお店もやっていたからそこも見に行ったが大丈夫そうだった。(しかし建て直した。どこもそうだが、改修するより建て変えたほうが、安い、というのがほとんどだったのではないか。見かけは建っていても、ゆがんだり、傾いたり、予想よりひどいというのが後々になってずいぶん判明していく。我が家もそうであった。)

そしてM子の家に来たとき、唖然とした。屋根だけになっていた。これでは助かってないな、と思った。そしてすぐ近くにある避難所となっていた小学校に行った。自分の母校にこんな形で再訪するとは思ってなかった。懐かしいが何とも不思議な気持ちで校舎内を歩いて体育館に向かう途中、家庭科室に(遺体安置所)という手書きの張り紙があった。それを見たときはかなり動揺した。扉を開けることはできなかった。自分の記憶にある教室だっただけにショックだった。
結局、体育館の避難者名簿にも名前はなく、見あたらなかったので、その日は帰った。

兄の家で夕食をともにした。焼き肉とビールだった。なぜなら、電気は通っているが、水とガスが止まっているので、ホットプレートでほとんど調理せずに、みんなで食べることができるからということだった。物資は豊富だが、生活の基本的な物がないという奇妙な食卓であった。先進国の都市災害とはこういうことか、と思った。