震災の記憶−4

翌日は給水車が来るというので、水をもらいに行った。このころは定期的に給水車が回ってきており、事前に時間も分かっているので、さしたる混乱もなくもらえた。直後は何時間も並んだりしたそうだが。飲料水は何とかなるが、風呂とトイレが困った。トイレは小は流さず、大の水は近くの小さいドブ川の水をちまちまバケツにくんで脇に置いてた。冬なのでドブの汚れも匂いもなくて助かった。とにかく、水洗トイレは水がないとこれほど始末の悪い物はない。
風呂は数時間かけて隣の市の銭湯まで入りに行ってたそうだ。もちろん数日に一度。これも冬で助かった。とにかく、便利な物はいっぱいあるけど、最低限必要な肝心な物がないばっかりに、不便でストレスのたまる生活だった。うちらは家で家族だけでなんとか生活し、」寝れたからよかったものの、家を失い、仮設に入れるまでの期間、避難所で過ごした人のことを思うと、相当きつかったろうなと思う。

そのうち、友人から、M子は市民病院に入院しているという情報がはいった。よかった、とにかく無事だった、と、すぐに見舞いに行った。

病室のドアを開けると、笑顔があった。足は大けがをしてまだ歩けないようだが、元気そうだった。
「なんか、みんな苦労してる時に自分だけこんなベットでゆっくり寝て申し訳ないわ、きのうなんかハンバーグがでてんよ、みんなに悪いなーと思いながらたべてん」
「けが人があほなこといいなや。かめへんて。俺も何でも手伝うつもりで帰ってきたのに、昨日は焼き肉やって、お客さんあつかいやってんで」
お互いの無事(僕はもちろん地震に遭ってないので無事もくそもないのだが)を喜び合った。