関札

 写真は関札(せきふだ)といいます。玄関に掲げてあり、邪気が侵入してくるのを防ぐ意味合いがあります。毎年、一回書き替えて新しくしてもらいます。表面をかんなで削り、太夫さん(神官さん)に新しく書いてもらい、再び玄関にお祀りをします。わが集落の日野地では毎年2月26日の神祭のときに祈祷してもらい各家庭に持ち帰ります。

 

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関札


それとは別に集落の入り口に(部落の境目)にも小さな関札をお祀りします。通常2か所ぐらいなんだそうですが、日野地では集落にかかっている橋すべてに関札をお祀りします。なぜそうなったのかはわかりませんが、地形的にうちの集落は山と日野地川にかこまれていて、基本的に橋を通らないと入れません。そのためでしょうか。鉄壁の守りです。

 しかし、今年は総代さんが橋にお祀りする関札を準備し忘れるという、前代未聞の事件が発生。しかも神祭当日気づいたのですが、まあ、ええか、かまんろう、これで、日野地にはコロナでもなんでも入り放題じゃねえ、わははは。ということになった。このゆるさもまたいい。まあ、去年の札がまだ残っているのでもう一年お願いしてみようということです。

 戦後、赤痢が流行ったときも、この山奥にも赤痢で亡くなった方がいて、埋葬(当時は土葬だった)せずに、河原で焼いたことがあると、近所のお年寄りから聞いたことがあります。考えればつい最近のこと。

 かつては世界中で正体不明の病気が、祟りや風土病などと恐れられていました。この関札にもそのようなものから守るための意味もあったのでしょう。それが今日まで風習として受け継がれているのは、思うとありがたいですね。信じる信じないとか、宗教だとか、昔の慣習とか、理屈ではなくて、信じてみると心が落ち着くんですよ。ああ、ありがたいなあって。

 ひとは得体のしれないものに恐れを抱く。それは本能。かつて農村はその得体のしれないものばかりだったのでしょう。

 都会育ちの私は、妖怪たちは、昔ばなしや絵本で見るもの、リアルでは心霊写真やUFO といったものが得体のしれないものでした。しかし、昔の妖怪や怪談は、子供時分に恐れいおののいた心霊写真やUFOとは本質的に違うものだと思ってます。

 正体不明の病気や死に至ることになる災害などを何とか理解しようと戦い、助けを求め、戒めを込めて子供たちに伝えるために、妖怪のような形とししてきた。それが伝わっていると。また一方で、妖怪を身近なもの、友達として人の生活にうんと近しいものとしても伝わっている。それは身近な自然への畏敬の念と親しみの感情。水木しげるさんの漫画を見てもやはりそう感じます。

 その二面性が自然を受け入れる、自然と暮らす、という事なんだと思います。

 台風の時は、鎌を竹ざおに括りつけて田んぼや家の門口に掲げるという風習があります。風切り鎌、ともいい、210日(にひゃくとおか)におまじないとして掲げる地方もあるそうですが、高知では「しけ」の前に田んぼに立てかけたりしてたそうです。これは大風を「切る」ための、暴風雨の被害を少しでも少なくしたいというおまじない。さすがに今ではやる人も見かけませんが、、、

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出典 嵐山町web博物誌


 迷信とか非科学的とか、いまはもっと便利で発達した世の中だ、とか、そういう視点ではなく、じっと嵐が過ぎるのを待つ、という前提のおまじないだと思います。人為ではどうしようもない。自然を受け入れ、耐え、そしてもう一つの人為を超えた力に助けを求める。そういうスタンスなのではないでしょうか。農業では多くの場面で、受け入れがたい自然の猛威を受け入れなければならない事がたくさんあります。

 農家にはいまだに染みついている、この心のありようは大事だと思います。そうしたうえで、お互いの助け合いによって生きてきたのです。受け入れる気持ちがないと、助け合いなどできません。

「神頼みして解決するなら世話ないわ、そんな悠長なことじゃない」と思われる人もいるでしょうが、科学技術や経済の恩恵を否定しているのではなく、受ける人間の心持によって害悪にもなっている、ということを言いたいのです。便利さや与えてもらって当然、という感覚が自らをも苦しめていることになっている感じがします。

 

 世間は新型コロナウイルスで大騒ぎしています。これほど人の移動が多い時代、この山奥の集落にもいずれ入ってくるでしょう。ウイルスなどによる伝染病の恐怖から解放されたのは、この集落の歴史から見ればほんの最近のことですが、当然、今も人類は伝染病を制圧できたわけではない。制圧どころか、日々格闘している。

 今回の騒ぎでも、ワクチンの開発、製造、簡易な検査方法の確立から臨床診断方法、治療方法の開発、医療機関、そして不足物資の製造メーカー、打撃を受けるサービス業や劇場、などなど、それぞれの仕事で、ありとあらゆるところで、何とか持てる力を出して助け合って生きていこうと戦っている人がいる。そういう方々には本当に感謝したいです。人気取りに余念のない政治家も、報道やネット上で批判や評論ばっかりしている連中も、店員にあれがないこれがないと文句を言うひとも、威勢はいいが戦っているとは思わない。

 

 情報は大切ですが、今では情報自体が得体のしれないもの、になっているジレンマがあります。得体のしれないものに翻弄されるのではなく、よくわからないものは、わからない、と思って、ただ、現実をしっかり見て受け入れ(ねたまない)、両隣の人にやさしくして(怒らない)、出来ることをやりながら生活をして(無理をしない)いけばいいんだろう、と思うようになりたいですね。

今年はいつもの年とは違い、関札を見つめなおしながら、そう考えていました。

 

 

桜はいいな

桜が今年は長持ちしています。やたら暖かいと思ったら恐ろしく冷え込んだりする天気にさすがにとまどっているようです。その証拠にいつもは早く終わるスイセンが桜が咲いてもまだ満開です。

3月はいろんな行事や会が目白押しでした。そのなかで、米奥小学校のコミュニティースクールの委員になって2回目の卒業式に行ってきました。昨年度と同じ、卒業生は2名。昨年度から統廃合の対象になっている、14名の生徒の通うこの学校を見て、はたして生徒が少ない小学校の何がいけないのか、なにが子供達に不都合なんだろうとおもいます。

成績も見劣りしない、優秀だと聞いています。書道も特選。元気もあって、笑顔もいい。総合学習の発表も劇もすごくよかった。卒業生の2人もなかなか立派で、優しくて、きくばりして低学年のみんなを良く皆を引っ張ってくれていたようです。うーん。学校の施設や周りの環境が日本一ぐらいよくて、統合して廃校にする理由はなに?たぶん腹の底から答えられる人はいないだろう。生徒の人数でどうこうとか教員の数がとか、そういう意味じゃなく、学校の問題を考えると、集落全体の将来像が見えてくると思います。学校をなくすということは、衰退、消滅を認めるようなもんです。

都会で700人の生徒が通う小学校を卒業した私にはなかった、小さいからこそ、の絶対に違う何かを得て卒業したんだと思います。いま分からなくても、いつかきっと生きてくると思います。

卒業おめでとうございます。

うちの集落にまた一家族移住組が入りました。0歳児がいるので、平均年齢がぐっと下がりますね。

明日で42です

農業とは関係ありませんでしたが、8回にわたって震災の記憶をたどってみました。
あれから15年になります。
あのとき感じたことは今も鮮明に心に残っています。しかし、こうして文章にすると、もっといろんな出来事があって、いろんなことを感じたと思うのですが、歳月がかなりの部分を記憶の彼方に押しやってしまったようです。
いま、こうして自然の中で、どっぷりと浸って暮らしていると、人間に本当に必要なものは何なのかをあのとき教わった気がしています。そしてその本当に必要なものが、いま、自分の周りにたくさんあるということを、ああこれが「豊か」なんだな、とおもっています。
自然の中では、人間はほんとに小さくてひ弱で、一人では生きていけない。しかしまた、自然から離れても生きていけない。土があって、水があって、そして人々が助け合える集落の暮らしがある。この土地でこれから人生の後半を生きていけることをただただ、感謝、感謝、です。

震災の記憶−8

 電車に乗って帰るとき、梅田駅で乗り換えた。そこでは、サラリーマンがふつうに仕事をして、ごくふつうに居酒屋がにぎわっているいつもの梅田の光景があった。わずか電車で30分あまりの距離なのに、このギャップにショックを受けた。ついさっきまで、ぞろぞろと給水車に並び、家を失った人が多数ひしめく避難所のある、壊れた町にいたとはとうてい思えない、どっちかが夢ではないだろうかと思うぐらいのギャップだった。
もしここで買い物をして再び西宮に戻るとすれば、途中で電車が止まり、長い距離を歩き歩いて、ガスと水道のない壊れた家に帰ることになるというのも、信じがたいというかなぜなんだろう、という不思議な感覚であった。

 戦争を経験した人は、震災と戦争体験を重ね合わせた人が多い。線路を歩いて買い出しに行ったことを、家の親せきは、当時小学生だった終戦後、大阪の闇市まで歩いて(!)買い出しに行ったことを思い出した、といっていた。東京の会社の上司で、戦争体験者の方は、僕に、テレビでやっている神戸市のがれきと焼け跡が、終戦後の東京の町そっくりで本当に胸が痛む、とおっしゃった。


 その後東京では地下鉄サリン事件が起こる。日本中がとんでもない騒ぎになった年だった。


 数週間後再び西宮に帰った。家は取り壊しがすんで、更地になっていた。

 友人達と震災後に元気を出そうと飲み会を企画して、みんなで集まって飲んだ。僕のように西宮から出ていたやつもみんな集まった。M子は、退院をして、まだ車いすだが元気に参加してくれていた。自分たちの友人達が一人もかけることなく再会できたのが何よりうれしかった。

 それから僕の生まれた町は、懐かしい風景のほとんどが失われて、新しい町に様変わりしていった。
地震で大打撃を受けた商店街はほとんどの店が、それを契機に店をたたみ、再開発でマンションと駐車場になり、チェーン店とコンビニと、ラーメン屋が目立つようになった。古い家が残る町並みや路地裏、未舗装の抜け道も無くなり、道は広くなり、建て替えた家が並ぶ新興住宅地のようになった。とくに駅前は面影もない。

なつかしい生まれ育った町が、明らかにあの地震を境に過去の物となった。ただ、夙川の桜並木が、変わらず毎年咲いていることが、西宮を離れている自分にとってなにより懐かしくまたうれしくもある。

 とにかく水(=風呂、水洗便所)がなくて、あまり迷惑がかけられないので、東京に戻ることにした。安否確認のできない友人などもいたが、とりあえず新聞の犠牲者欄にのっていなかったので、みんなも大変な生活で手一杯だろうと思い、あえて探したり訪ねたりするのはやめた。
 町をひとまわりした。ああ、ここも、あそこも、なつかしい古い店や家がことごとくつぶれていた。近所では夙川沿いのマンションが一棟根こそぎ横倒しになっていたのがいちばんひどい被害だったように記憶している。街角には粗大ゴミの山が築かれていた。どう見ても壊れていない冷蔵庫などがつまれているのを見て、便乗ですてたな、と思ったが、あとあと考えるとはたしてどうだろうか。というのも、ある後輩が、震災のあと家の片付けをしているときに、あとから何で捨てたんだろうと思うほど、思い出の品とかもいろいろ捨ててしまった、なんか異常な心理状態だったようだ、と話をしていた。
 あきらかに、あの大震災の直後は、非日常にいきなり放り出され、一見落ち着いているような人も、心に相当負担があったにちがいない。がんばらないと、と踏ん張っているような緊張感は町のあちこちにあった。被害家屋の判定が出始めて、家の兄が当時勤務していた書店の入っているテナントビルは判定「赤」ということで、再開の見込みはなく、余震のある中、ヘルメットをかぶっておそるおそる片付けに行っていた。
 いやな話も良く聞いた。便乗値上げ、支援してくれて当然もっとよこせという態度、公衆電話泥棒(倒壊している公衆電話から部品を盗み出して、偽造テレホンカード製造に使える)。
 阪急神戸線の24時間の復旧工事がつづき、テレビはニュースとACのポイ捨て禁止のコマーシャル以外一切やらないし、国道にあふれる救援車両の渋滞は相変わらずあったが、食べ物もいろんなものも行き渡ってきて、物質的には普段と変わらくなっっていた。が、生活の根本がない。風呂、トイレ、仕事場、学校、に行けない、これからの先が見えない、という当たり前にしてきたことが全く止まったゆがんだ生活、それが、震災後の生活だった。
 

震災の記憶−6

 翌日、母親がやっていた洋菓子のフランチャイズのお店を開けているというので、手伝いに行った。もちろん商品の仕入れはなく、店にある物を売るだけなのでほとんど品揃えはない。しかしお客さんは良く買いに来てくれた。男性がなんか食べるものないか、ときたので、日持ちするお菓子ぐらいしかないが、というとその一つを買っていったのを妙に覚えている。そのほかにも割とお客さんはいたようだった。
 そしてその近くの、学生の頃にアルバイトでお世話になっていたスーパーにもいってみた。社長他、みんなは無事で元気そうだった。大きな商品棚がそのまま数十?ずれた痕があっったが、建物自体には被害がなかった。震災の当日に、こわれた商品をかたづけ、シャッターを半分あけたら近所のお客さんが買いに来るので、そのまま開けていた。そしたら夕方のニュースか何かで写ったらしくて、客が殺到してパニックになりそうになってあわてて閉めたそうだ。
 母はとにかく仕事に対しても強い。売ることよりも店を開けることに意味があると思っていたのは確かだ。後日聞いたが、地震の後、うちの兄が私の東京の家にしばらく避難しよう、と提案したとき、「他のみんながこんな状況でもがんばっているのに、家もつぶれてへんし怪我もしてへんのに、なにをなさけないこといってんの」と言ってしかりつけたそうだ。まあ、乳飲み子を抱えている兄の気持ちもわかるが、他の人ががんばってるから自分たちも楽はできない、という気持ちが強かったのだろう。
 

 M子は5時間生き埋めになっていた。地震発生から家の下敷きになったときに、手で顔をかばったのか、動けなくなっただけでなく、声が出せない状態だったそうだ。
 兄が消防に助けてくれるように要請したが、呼びかけに返事がないので妹さんはたぶんだめだろう、可能性のある人から順に救出する、ということだったそうだ。そのやりとりは全部聞こえていたそうだ。しかし声が出ない。その後、兄が近所の人などを呼んできてくれて、がれきをのけて助けられたそうだ。その間5時間。上空を飛ぶヘリコプターの音がうるさかった、とか言っていたが、その間の心情、本人以外では分からないだろう。
 その後、救出されてから母親は頭に怪我をして病院に行ったので、ついて行く。母親は入院。そこで、自分は帰る家がないから病院のロビーに寝ても良いですか、といい、他のけが人達とともにそこで一夜を明かす。そしてたまたま巡回してきた医師に、足の怪我をみてもらい、これは大変だ、ということで即入院。クラッシュ症候群(長時間圧迫されていた怪我による重篤な全身症状)とのことだった。このたまたまが無ければ、死んでいたかもしれない。
 病室を出てからも、何とも言いようのない体験に圧倒されていた。