震災の記憶−4

翌日は給水車が来るというので、水をもらいに行った。このころは定期的に給水車が回ってきており、事前に時間も分かっているので、さしたる混乱もなくもらえた。直後は何時間も並んだりしたそうだが。飲料水は何とかなるが、風呂とトイレが困った。トイレは小は流さず、大の水は近くの小さいドブ川の水をちまちまバケツにくんで脇に置いてた。冬なのでドブの汚れも匂いもなくて助かった。とにかく、水洗トイレは水がないとこれほど始末の悪い物はない。
風呂は数時間かけて隣の市の銭湯まで入りに行ってたそうだ。もちろん数日に一度。これも冬で助かった。とにかく、便利な物はいっぱいあるけど、最低限必要な肝心な物がないばっかりに、不便でストレスのたまる生活だった。うちらは家で家族だけでなんとか生活し、」寝れたからよかったものの、家を失い、仮設に入れるまでの期間、避難所で過ごした人のことを思うと、相当きつかったろうなと思う。

そのうち、友人から、M子は市民病院に入院しているという情報がはいった。よかった、とにかく無事だった、と、すぐに見舞いに行った。

病室のドアを開けると、笑顔があった。足は大けがをしてまだ歩けないようだが、元気そうだった。
「なんか、みんな苦労してる時に自分だけこんなベットでゆっくり寝て申し訳ないわ、きのうなんかハンバーグがでてんよ、みんなに悪いなーと思いながらたべてん」
「けが人があほなこといいなや。かめへんて。俺も何でも手伝うつもりで帰ってきたのに、昨日は焼き肉やって、お客さんあつかいやってんで」
お互いの無事(僕はもちろん地震に遭ってないので無事もくそもないのだが)を喜び合った。

震災の記憶−3

(しばらくは農業に関係ないのですみません)

小学校からつきあいのある友人の家を順番に見に行った。古い家は激しく倒壊していたが、思っていたよりも全壊が少なかった。しかし、電柱が傾いたり、地面が所々隆起して歩道がひび割れたりしてるのを見ると、よくぞ無事だったなと思うばかりであった。とくに火災が発生してなかったのが救いだったと思う。

H氏宅は一階が完全に倒壊して、2階が1階になっていた。みんないつも2階で寝ているので無事だったそうだ。暗い中はい出したら一階だったのでおどろいたそうだ。私と同じく西宮を離れていたU氏宅は無事だったが、中はどの家もそうだがぐちゃぐちゃだろう。別でお店もやっていたからそこも見に行ったが大丈夫そうだった。(しかし建て直した。どこもそうだが、改修するより建て変えたほうが、安い、というのがほとんどだったのではないか。見かけは建っていても、ゆがんだり、傾いたり、予想よりひどいというのが後々になってずいぶん判明していく。我が家もそうであった。)

そしてM子の家に来たとき、唖然とした。屋根だけになっていた。これでは助かってないな、と思った。そしてすぐ近くにある避難所となっていた小学校に行った。自分の母校にこんな形で再訪するとは思ってなかった。懐かしいが何とも不思議な気持ちで校舎内を歩いて体育館に向かう途中、家庭科室に(遺体安置所)という手書きの張り紙があった。それを見たときはかなり動揺した。扉を開けることはできなかった。自分の記憶にある教室だっただけにショックだった。
結局、体育館の避難者名簿にも名前はなく、見あたらなかったので、その日は帰った。

兄の家で夕食をともにした。焼き肉とビールだった。なぜなら、電気は通っているが、水とガスが止まっているので、ホットプレートでほとんど調理せずに、みんなで食べることができるからということだった。物資は豊富だが、生活の基本的な物がないという奇妙な食卓であった。先進国の都市災害とはこういうことか、と思った。

西宮が近づくにつれて、屋根をシートで覆っている家が増えてきた。
そしてリュックを背負った人がほとんどになってきた。

西宮北口の駅に降り立つと、まず最初に目に飛び込んだのが、法外な値段で弁当を売っている連中だった。こいつらあほか、と思ったが、それを買っている人が結構いて悲しくなった。
歩いて実家まで1時間ぐらい。電車を降りたときから、買い出しだろうか、荷物を背負った人の列が続く。それに続いてゆっくりと歩きながら周りを見る。大きなマンションは大丈夫そうだが、お寺が完全にひしゃげて屋根だけになっていた。ここでは2名なくなっていたそうだ。そして自販機や、公衆電話が壊れて倒れているのを見て、普段見慣れたものがあちこちで同じように壊れているのを見ると、大地震があった、というのを実感した。そして、歩きなれた道路で自衛隊の人たちとすれ違うと、ああ、やはり非常時なんだ、自分の町が被災地なんだ、と実感した。

実家は外見では比較的無事そうに見えた。屋根瓦が落ち、壁が一部落ちてはいるがちゃんと立っていた。中にはいると、両親がかたづけていた。連絡なしに行ったので(連絡できなかったので)驚いたようすだったが、いつものように迎えてくれた。家は中から見ると、所々隙間ができて、風呂や階段は外が見えるくらいだった。両親の寝ていた部屋の大きな家具は、幸いにも隙間無く並んでいて、家ごと揺れたらしくて倒れなかった。怪我ナシですんだが、これが寝ているところに全部倒れたら無事ではなかったろう。ところが、僕が元いた部屋は家具がぜんぶ中心に向かって倒れていて、僕が寝ていたら大けがをしてたとおもう。これもたまたま運がよかったと言うことだ。

もうひとつ、台所の食器棚が何ともなかった。これは、食器棚(かなり大きい物だが)の下の手前に、鍋ぶたがはさまって揺れを吸収する空間ができたようだ。揺れた瞬間に、鍋ぶたが飛んできて、下にがちっとはさまったらしい。のけようと思ってものかなかった。すごい偶然だなあ、と話し合った。

瓦の落ちた我が家にブルーシートをかぶせる作業をしてから、早速、友達の安否を確認するべく市内を回った。

大震災−2

 それ以降、全く連絡がつかなかったので、東京にいる西宮出身の友人達と情報を交換したが、まったくらちがあかない。新聞みて、知り合いや友人がのってないか、この写真や一瞬写るニュース映像はどこのことか、目を皿のようにしてみていた。石川に移動して仕事をしたが、みな地震のことで話題はもちきりだった。自分は安否が確認できたからよかったが、そうでなかったらやっぱり飛んで帰っただろう。

 公衆電話が優先されるのは知っていたので、出張先の公衆電話から何度も電話して、3日目にやっと2回目の電話がつながった。みなは避難所を退去して兄のところで寝ているが、昼間は実家で片付けや物資の確保をしているとのこと。
 兄は生まれたばかりの子供がいて、当時の借家は、鉄筋コンクリートの3階建てで、かろうじて被害は少なかった。もちろん家の中はひっくり返っていたそうだが。
 阪急神戸線の高架のすぐよこで、数十メートル先で高架が横倒しになっていた。あと少し手前だったら、運悪く架線の鉄柱が倒れていたら、ぺしゃんこになっていたかもしれない。
 地震でどうなるかは本当に紙一重。亡くなった人も生き残った人も大して違わないとおもった。揺れが市内一様に来たのではなく、あるななめの方角にそってその周辺がひどく破壊されていると思った。そのエリアにのっかっているものは結構頑丈なものでも倒壊されていた。

 余震が続く中、何とか新大阪から西宮北口まで鉄道が開通したとの報道で、すぐに戻ることにした。
 東京では被害が甚大だった神戸市長田区に報道が集中し始めていて、情報がなかなか入らず、友人のことが心配でならなかった。

 一旦東京に戻って、会社のみんなからあたたかいお見舞いと励ましを頂いて、水と日用品をキャリーバックいっぱいに詰めて新幹線に飛び乗った。

大震災の記憶−1

 昨年六月から更新してませんでした。見ていて下さっていた方ごめんなさい。

 さて、農業とは関係ありませんが、これから少し、阪神淡路大震災のことについて書いていきたいと思っています。あれから15年。いつかは書き留めておこうと思っていましたので、いい機会と思って書いてみます。

 私は当時は東京にいました。西宮の実家は被災して全壊しましたが、幸い身内にはけが人もいませんでした。
現場にはいなかった自分は、震災5日後に実家に帰りました。そして見聞きしたことを、記憶が薄れる前にその前後を書き留めてみます。


 朝、7時前ごろだったと思う。電話が鳴って起こされた。その日は、ある食品機械の製造プラントの試験運転で、千葉と石川のメーカーの工場に4日ほど出張する予定が入っていた。当時の上司からだった。
 「村上さん、関西で大きな地震があったみたいだけど実家は大丈夫?」
 まさか関西で大地震が起こるなどと夢にも思っていなかったので、たいしたこと無いだろうと思ってテレビをつけた。ズームイン朝で福留さんが、大阪で震度4を伝えていた。工事現場のクレーンが傾いた様子を写していた。
 大阪で震度4ならたいしたこと無い、と思い、「大丈夫でしょう、予定どうりいきますんで」と答えた。

 今では考えられないが、この時点でまだ、東京ではこの情報しか入っていなかった。神戸のコの字もなっかた。

 9時ごろと思う。予定どおり、会社の人と待ち合わせの埼玉のある駅に着いたとき、「なんか関西で大変みたいだよ」といわれた。「高速道路が崩壊してるって」「ほんとですか?」
 10時にメーカーの現場に入った。この時点で、死者も出ているという情報もはいった。そして、大変だよ、西宮から芦屋にかけて阪神高速道路が倒壊している模様。死者数十名。というニュースを工場の人が伝えてくれた。
 電話を借りて(当時は携帯は未普及)実家に電話してみたがもちろん不通。状況を思い浮かべて、ああ、僕の両親は、死んだかな、と思った。あの、阪神高速が横倒しになっているのが本当なら、近くにある実家なんぞぺしゃんこのはず。家の状態からして、だめだろう、と覚悟を決めた。

 一応試験運転をすませて、昼休み再び電話をした。奇跡的につながった。親父が出た。

 「みんな大丈夫やけど家はめちゃくちゃや。やられたわ。もう住めへんで。」
 
 あとから聞いたことだが、このとき、親父は、電気の配線をつなごうとして、壊れた壁にある切れた線をつないだでいた。そしたら、それが電話線で、結んだ瞬間に僕からの電話がなったらしい。

 その後はまた、全く電話はつながらなかったが、この偶然の一回で、みんなの無事と家の状況がわかった。
 会社のみんなには戻れといわれたが、親からは帰ってこんでいい、と強く言われた。避難所にいる家族に会いに行っても、避難所に人が増えてみんなに迷惑がかかる。水もよけいにいる。とりあえず安全が確認されたから、予定の出張は続けることにした。

 ニュースでは火災と、うなぎ登りに増え続ける死者の数を伝え続けていた。とたんにたくさんの友達のことが心配になった。

月いち更新

tmagri2009-06-05

もう六月に突入しました。
田んぼの作業も2週間遅れ(雨不足のため)で、始まっています。
このブログはむらかみ農園の農産物のラベルを見て訪ねてもらっている方もいると思いますが、がんばって月1回か2回の更新です。あいすみません。
出来るだけ農作物の情報を、と思うのですが、なんせ、これから夏に向けてあっという間に畑の様相が変わっていくので、なかなかブログがおっつかないようです。
小麦はもうすぐにでも収穫できるようになっています。

奥に見えるのはこれももうすぐ収穫時期のトウモロコシです。
忙しいん農作業の合間、本当にいろんなことがあります。毎日が勉強ですね。

忙中閑あり

tmagri2009-05-07

今年は低温傾向で、苗や生育は遅れ気味だ。
しかし山は順調に新緑を芽吹いている。

毎年この時期、農作業が一気に増えて、大変なことになる。そんなとき
忙中閑アリ、とつぶやいてみる。
さぼるときの格好の言い訳となる。
今年は黒潮町のTシャツアート展にちらっと行ってみたりもした。


農作業の段取りで頭が痛いときに、ふと新緑を眺めると、後ろのほうからこの悪魔のささやきが聞こえてくる。
農業をやっていて、この悪魔のささやきに負けることが出来たのはつい最近のことだ。先読みに自信が出来たからだろうか。
しかしそう甘くはない。絶対にどこかでツケが回ってくるようにできている。その真っ正直なところが農業の恐ろしさだ。



オクラの芽が生えそろっています


小麦も順調に穂が出そろっています